『「穢れ(けがれ)」と「清め塩」についての考察』

- 宗教流派の問題は除外。
-「清め塩」企画の概念構成をするための考察である。



「 穢れ(けがれ)」

「穢れ(けがれ)」とは、「汚れ」の意味ではない。(*1)
「穢れ(けがれ)」とは、時間・空間・物体・身体・行為などが、理想ではない状態・性質になっていることを表す神道の宗教概念である。
「穢れ(けがれ)」とは、複雑な概念であり、ひと言でこれを説明することができない。
「穢れ(けがれ)」とは、単に「死」そのものを指すものではない。
「穢れ(けがれ)」とは、大変に広がりのある概念である。

特定の何かを指し示すものではなくて、生と死の接するところである出産や死のように、ある意味体系の中で境界的な位置にあるものや両義性を帯びたもの、簡単な位置づけのできないものなどが随時「穢れ(けがれ)」と名づけられる。

「清め」

「清め」とは、「穢れ(けがれ)」を取り除くための行為。
「清め」とは、上記を踏まえると「穢れ(けがれ)」という不安定な状態から、安定している状態「常態」へ移行させる行為と分析される。
「祓い(はらい)」「禊(みそぎ)」でも「清め」を行うことが出来る。

「清め塩」

「清め」のための「塩」は神道以前の日本的感覚に根源がある。
「古事記」で、イザナギが黄泉の国で腐敗した妻の姿を見て逃げ帰った後、身体を海水でみそいだことがその始源とされている。(*2)

「塩を撒く」という行為は「塩」に限らず、米・豆・栗などを村落の外れに撒いて、「穢れ(けがれ)」をはらう儀式を行っていた(ある地方では厄年に村の境で米を撒くという風習がある)。 これは、塩や米・豆などに罪や「穢れ(けがれ)」を寄せて、それを撒くことで清めるというもの(この考えは、節分の豆まきにも通じる。つまり豆をまくことで、身についた災いを祓う行為)。 先に述べたように、塩による「清め」は、海水で身を清めたいた「潮垢離(*3)」の代用であり、海の象徴である。 実際に潮水で身を清めていたものが、塩を撒くことで、身に付いた罪・穢れを塩(海)に託して祓い清める理にかなった行為である。

「塩」=「海」
「清め塩」=「潮垢離(*3)」

現在に通じる葬儀形態が確立した江戸時代初め以来、庶民の葬儀では会葬者が「清め塩」を用いていたのは一般的ではなくて、むしろごく少数派であった。 「ムラ葬」と呼ばれるかつての村中総出の葬儀では、今でいう一般会葬者がほとんどいないこともあるが、葬儀に関わった多くの村人も清め塩を使わなかった。

これは「穢れ(けがれ)」が認識されていなかったということではなく、「穢れ(けがれ)」に対抗する別の手段が用意されていたからだ。 例えば米の霊力に頼って葬儀の前後に米を沢山食べたり酒をふんだんに飲むこと、さらにそれを一座に会して共食することから始まり、読経念仏を含めた宗教儀礼の多くがこの「ケガレ」に対抗する力の源として受け止められていた。 特に近親者のように「穢れ(けがれ)」を不可避的に被ると考えられた人々は、これらに加えて「コモリ(篭り)」「モノイミ(物忌み)」のように身を慎んだり、貧窮者への施しなどで滅罪を図ることを通じて、「穢れ(けがれ)」を脱して「常態」への回復を図ろうとしていた。


(*1)
「けがる」と「よごる」の違いは、「よごる」が一時的・表面的な汚れであり洗浄等の行為で除去できるのに対し、「けがる」は永続的・内面的汚れであり「清め」等の儀式執行により除去されるとされる汚れである。主観的不潔感。

[補足説明]
「罪」と「穢れ(けがれ)」
「罪」が人為的に発生するものであるのに対し、「穢れ(けがれ)」は自然に発生するものであるとされる。 「穢れ(けがれ)」が身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられた。 「穢れ(けがれ)」は普通に生活しているだけでも蓄積されていくが、死・疫病・出産・月経、また犯罪によって身体につくとされ、「穢れ(けがれ)」た状態の人は祭事に携ることや、宮廷においては朝参、狩猟者・炭焼などでは山に入ることなど、共同体への参加が禁じられた。 「穢れ(けがれ)」は禊(みそぎ)や祓(はらえ)によって浄化できる。 「罪」は「恙み(ツツガミ)」から、精神的な負傷や憂いを意味する。

戦後の民俗学では、「ケガレ」を「気枯れ」すなわちケがカレた状態とし、祭などのハレの儀式でケを回復する(ケガレをはらう、「気を良める」→清める)という考え方も示されている。 「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。 民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。

(*2)
日本神話における「穢れ(けがれ)」
妻イザナミに先立たれたイザナギが、黄泉の国に行き亡き妻に会ったが、妻は「穢れ(けがれ)」た姿になっていた。 同時にイザナギ自身も身を「穢れ(けがれ)」てしまった事に気づき、黄泉の国から逃げ帰ってきて、日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわぎはら)で身を清めた。 これが「禊ぎ(みそぎ)」で、「身そぎ」「水そぎ」に通じ、水で穢れを洗い流すことになった。 その「禊ぎ(みそぎ)」の最中に何柱もの神々が誕生した。三貴子など、祓われた穢れそのものからも神が誕生した。

祝詞(古事記)
かけまくも畏(かしこ)きイザナギの大神、筑紫の日向のタチバナのオドのアワキガ原に禊祓い給ひし時に、生(あ)れませる、払い戸の大神たち、もろもろのまが事、罪穢れを払いたまえ、清めたまえと申すことの由を…。

(*3)
「潮垢離」の分析
人類は海からやってきた。
「海」の漢字は、「水部」「人」「母」で出来ている。
海は水であり、人類の母である。
その海に入ることを、母のお腹「羊水」に入ることに例え、出産(この世界に生を受ける事)をトレースすることにより、こちらの世界へ戻ってくるという行為(清め)をしているのではないかと分析した。


20110908 ∞