『「すごい」について考えた』
私は絵描きであり、普段アトリエで絵の事をあれこれ考えている。
「すごい絵を描きたい」とあれこれ考える。
『「良い」ってなんだ?』の時と同じように「すごい絵」のまえに「すごい」を考えてみようと思う。
『「すごい」について考えた』
「すごい」とは何かなと考えた。
- 皆に「すごい」と認められているものは「すごい」。
けれど、考えてみると意外と数が存在している。
プロであれば、普通の人からみて「すごい」と思われるものが作れて当然ではないか。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
- ものすごい技術だとか、良くこのアイデアを思いついたとか、プロの中でも数名しか出来ないような事を行っているものは「すごい」。
それでもまだまだ、数名いる。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
- その人にしか出来ないものを作るという事は「すごい」。
「もう一声!」(2000)にも書いた「貴重性」があがっていくという訳だ。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
ここでのヒントは「貴重性」だ。「貴重性」を上げていく事を考えよう。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事は「すごい」。
時間軸を足すことで「貴重性」は上がり、「すごい」も増していく。
ここまでは、皆理解できますよね。
世の中の平均的なプロと呼ばれるレベルはこのぐらいか。
この先は、作家の世界、高橋思考深海世界へ突入。
ここから数倍、潜ります。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
「貴重性」と「すごい」は比例している事が分かる。
「貴重性」をそれ以上に上げる為には、どうするか?
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- そしてそれは、比べる事の出来ない1点しか存在しないという事。
「貴重性」が上がり、話だけでも「すごい」が伝わってくる様になってきた。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しないものは、どの場所へ持っていっても多くの人々の心をつかんでしまう。
これは「すごい」。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しないものは、どの場所へ持っていっても「全て」の人々の心をつかんでしまう。
これは「すごい」の数倍格が上がった。
その「すごい」よりも「すごい」のは何かなと考えた。
ちょっと考えた。
「貴重性」を上げるのであれば、限定していくべきではないか。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないもので、そこに来た「全て」の人々の心をつかんでしまう。
完璧っぽい。
けど、まだ潜れる。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
限定していく事、数を減らしていく事に意味を見いだすのであれば、「貴重性」を「希少性」に変えてみよう。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないもので、それを唯一理解出来る1人の心をつかんでしまう。
うーん?
これだと同じ階層で、潜れてない感じがするな。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
「貴重性」に「希少性」を足す考え方で作り直してみよう。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないもので、それを唯一理解出来る1人の心をつかむ様に、そのものを理解することが出来ないそこに来た「全て」の人々の心をつかんでしまう。
これは「すごい」ね。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
「貴重性」に「希少性」を足す考え方の進行形。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないはずのものという認識で、どの場所へ持っていっても、それを唯一理解出来る1人の心をつかむ様に、そのものを理解することが出来ないそこに来た「全て」の人々の心をつかんでしまう。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないはずのものという認識で、どの場所へ持っていっても、その場所にいるという認識を与えて、それを唯一理解出来る1人の心をつかむ様に、そのものを理解することが出来ないそこに来た「全て」の人々の心をつかんでしまう。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
「感染力」を足してみる。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないはずのものという認識で、どの場所へ持っていっても、その場所にいるという認識を与えて、それを唯一理解出来る1人の心をつかむ様に、そのものを理解することが出来ないそこに来た「全て」の人々の心をつかんでしまい、まだそれを見たことが無い人たちにまで、そのすごさが伝わってしまう。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
「確実性」を足してみる。
- その人にしか出来ないものを作る人が、その時にしか作る事が出来ないものを作る事。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないはずのものという認識で、どの場所へ持っていっても、その場所にいるという認識を与えて、それを唯一理解出来る1人の心をつかむ様に、そのものを理解することが出来ないそこに来た「全て」の人々の心をつかんでしまい、まだそれを見たことが無い人たちにまで、そのすごさが伝わってしまう。そして、その与える感情、感覚に誤差はなく、「人間である」ことで、あたかも「生体反応」の様にその感覚を受け取っている。
その「すごい」よりも「すごい」とは何かなと考えた。
「奇跡」を足してみる!
- その人にしか出来ないものを作り、その時にしか作る事が出来ないものを作る事を常に作り出してる人が、現代の科学、常識では、この世の中に存在することはできないアイデアを、偶然に考えついてしまう。
- まだ、この世界に存在するはずの無い素材、そして、自分だけの力では作り出すことができないという事実。
- 探求の結果、神様の思し召しか偶然にも、この世界に存在するはずの無いと思っていた素材が存在している事を発見/発明してしまう。
- それに合わせて偶然、同じ事を考えていた仲間とも出会うことになる。
- 場所も、時も、今しか、この作品は、この世に生み出すことはできない。
- 知り合ったばかりの仲間と思いもよらないほど短時間で、その作品は生まれた。
- その比べる事の出来ない1点しか存在しない、その場所でしか存在出来ないはずのものという認識で、どの場所へ持っていっても、その場所にいるという認識を与えて、それを唯一理解出来る1人の心をつかむ様に、そのものを理解することが出来ないそこに来た「全て」の人々の心をつかんでしまい、まだそれを見たことが無い人たちにまで、そのすごさが伝わってしまう。そして、その与える感情、感覚に誤差はなく、「人間である」ことで、あたかも「生体反応」の様にその感覚を受け取っている。
- 作品が作られた瞬間、制作者達は、みんな死亡、制作記録もきえてしまう。
- その作品は、一世紀後、偶然にも発見した1人の手によって、世界中のすべて人に愛されるようになる。
しつこいので、ここまで。
魔法の話は別の機会に。
2001年、渋谷Bunkamuraで行われた「ウィーン分離派展1898-1918」。
エゴン・シーレが大好きな私は、そんなに有名ではない1枚の絵の前で、1時間近く立ちすくみました。
作品名
「夜のクロスターノイブルク修道院」1908 エゴン・シーレ
Dome of Klosterneuburg Abbey by Night 1908 Egon Schiele
これをみて、画家としてひとつの考えを見いだしたからです。
私は、お酒が大好きで、よく酔っぱらって街をふらつきます。
酔っぱらって、ほろ酔い気分、天気のいい夜そんな時、街の隙間からお寺が目に入ります。
大きな木々と月光で光る建物。
「うわー美しい」
ポーと数秒なのか、数分なのか眺めています。
何て良い日だ。素敵なものが見れた。酒飲みで良かったと思う瞬間。
これが、私がこの絵に感じた情景です。
それが絵として、ここに存在しているという事実。
そして、他人にそれが伝わっているという事実。
画家だったら、素敵な風景は「絵に描きたい」と思うでしょう。
その情景を「絵に描きたい」と思う所までは良いでしょう。
私だって思います。
絵を見たその時、私が思っていたひとつの事。
「この絵は、いつ描いたんだ!」
画家をしているから気づくのかもしれませんが、この絵、どのタイミングで描いたのでしょう。
ちょっと、考えてみて下さい。
思ったそのとき、家から絵の具とキャンバスを担いで持ってきては、自分の中の情景なんて壊れてしまいます。
偶然、キャンバスと絵の具が置いてあったとしても酔っぱらっていては、絵なんて描けません。
(この絵のタッチは、酔っぱらって描いているものではないと思います)
酔っぱらうのが好きならば、何十回か、そう思って、絵馬鹿だったら、家に帰って描いてみようとチャレンジをして、数回失敗。
しらふの時に描かないと、タッチなんて死んでしまう。
こんどは、しらふの時に思い出しながら描いてみるか、情景が出ない。
何かの拍子に写真に収めてみてはいかがだろう。
写真に写っている風景は、酔っぱらって、感じている風景とはかけ離れている。
それでも、参考にしながら、描いていく。んームンクの感じとか近いぞ!画集買ってこい!
アーでもコウでもないと、頭の中でぐるんぐるん考えている間に1時間近く経っていたんですね。
要はその時、私の中にその絵を仕上げるタイミング自体が、存在しなかった。
それを考えさせてくれた「作品」なのです。
そしてまた、この時ひとつ不思議な出来事がありました。
その出来事が、私にとって忘れられない作品にしてしまったのです。
絵を堪能した高橋は、出口にて意気揚々とカタログを買い求め、その場で「夜のクロスターノイブルク修道院」の色がちゃんと出てるかをチェックしようと探します。
しかし、カタログに作品が載っていないのです。
係の人に確認しても「出品作品は全て掲載しているはずですよ」
「むー!うそだ、あの絵が無いじゃないか!」高橋はちょっと興奮気味!
偉そうな人が出てきて、穏便に対応してくれて「そんなはずは無いのですが、どの絵が無かったのですか?」と、高橋、係の人と一緒に最入場。
「これで、あの絵が無かったらどうしよう」と怖くなりながら、その絵の前に、「これです」高橋が指差した絵は、ちゃんとありました。
係の人も確認。本当にカタログに掲載していないので、ちょいと騒ぎに。
結果、この作品、日本のコレクターの特別出品だったんです。
そのため、カタログに落丁していたそうな。
なんだかこの作品が、私にこの事を分からせに会いに来てくてたみたいで、高橋勝手に大興奮!
これは、夢ではありません。
なぜなら、落丁したページは後からBunkamuraから送られてきたからです。
でも、本当に夢のよう。
その後、下記のクリムトの作品に同様の事を感じました。
「暖炉の前の女」1897-98 ダグタフ・クリムト
Lady at the Fireplace 1897-98 Gustav Klimt
少々マニアックですが、双方私の大好きな作品ですので、見る機会があれば是非。
上記、「すごい」を考えるきっかけになった作品の話。
生まれてきた瞬間、子供を生み出すとき、暗闇で初めて炎を見たとき、海に潜って下から空を望んだ時、山に登って遠くを眺めているとき、文章で気持ち以上の気持ちを伝えられる様になった時、宇宙にいって地球を感じたとき、ワープをして体が粉々に分解されて再結成される瞬間、テレパシーで人が言葉を発さなくなった時、そして、死ぬ時。
私は、世界はつながっていて、共有意識があると考える。
そうでなければ、困る。
そうでなければ、私の究極の作品は完成することはできないから。
まだまだ、潜り足らない。
20100618 ∞