『朱とは名であり主である』

2012年、第一回京都マラソンのポスター制作の際に京都を調べていて見つけた言葉。
見つけた時、あまりの衝撃に2、3日震えた。

それまでは、向こうの世界のモノを、こちらで完全に再現することは不可能だと思っていた。
なぜならば、こちらではまだ存在しない素材や考え方などがあるため、その素材を持ってくる為には、その他大勢(見る人)の「許可」がないとこちらの世界では定着しないと考えていた。
が、
その考えを完全に無に返してくれる言葉。
ずっと、考えていた答えがここには含まれている。

「持って来れるんかい!!!はよ言えや!」(心の声)

この言葉を見つけてから、以降の作品はもう考え方がまったく違うやり方で制作してる。
根本が違う!確実にすごい!乞うご期待。


「朱とは名であり主である」

「朱」「名」「主」ともに「しゅ」と読む。
「陰陽師(*1)」の言葉。

「朱」とは、「術」のこと。
「名」とは、「名前」のこと。
「主」とは、「主なもの」「自分」のこと。


いろいろな読み方が出来るが、私の読み方。

「術とは、名前をつけることであり、主なもの(主成分)を作ることである」

術は、いわば魔法である。
芸術、美術。
術の発動は、名前をつける(居場所の特定/他のモノから見たそのモノ)を作ること。
術の発動は、そのモノの主成分を作ること。

例えば、
「石」に、その後から「蛙」の要素を足したとする。
「石1:蛙9」だったとしたら、それは皆から「蛙」と認識される。
元は「石」だったとしても、実物の「蛙」を足す訳ではなく、「蛙」の要素を足して行くと、他のモノには「蛙」と認識される。

美術で言えば、
「石」を削り、本物に見えるように「彫刻」する。
「蛙」の要素が9割に達すれば、他のモノからは、「本物の蛙」に見える。

よりもっと「蛙」の要素を上げていく、
もしも、元「石」でも、99.9%「蛙」にしたら、100%近く「蛙」にしたら、
それはもう「石」自体が、自分は「蛙」だと認識してしまい動き出すのではないか。

「他のモノの認識」だけでなく、そのモノ「主」の認識さえも変えられるということだ。

「術」なので、
「石」という認識がもどると「術」は解けて、「ただの石」にもどってしまう。


私たちは、本当に「人」なのだろうか?
「名前」を付けることで、分類し、認識しやすいように「術」をかけていく。
「人」という「術」がかかる前は「ナニモノ」だったのだろうか?
「人」という「術」をかけたモノを「神」と呼ぶのであれば.....

それは「ナニモノ」か?


*1 陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)とは、 中国発祥の陰陽道と称する特殊な方術の占法をもってすべての吉凶災福を察知し,これに処するための呪術作法を行う宗教家で,方士,方術士,方伎士などとも呼ばれる。 官僚としては684年(天武13)2月,新都選定の卜占に派遣された記事が初見で,律令制下では陰陽寮に6人の定員がおかれ占筮相地等をなし,地方では大宰府はじめ東海・東山・山陰・西海各道や陸奥鎮守府に配置された。

20130205 ∞