「地域が作品に与える意味」

 幼少期に地域で過ごした日々は、その人の根源を形づくるものだと感じる。東京や海外で生活するようになってから、その思いはいっそう強くなった。作家自身にとっての芸術作品とは、「元の世界」すなわち安心できる場所を再構築しようとする試みだと言っても過言ではない。ある年齢を超えると、作家の表現や生き方そのものが、無意識のうちにかつて過ごした土地へと引き戻されるような感覚を覚える。それは、地域というものが、単に自分の記憶にとどまらず、父や祖父、さらにその前の世代から連綿と続く歴史や文化を内包しているからだ。そのため、作家は自分の人生で感じた以上の世界観の作品を生み出すことができる。地域とは、それほどまでに深く、そして大きな影響を私たちに与えている存在なのである。

 記憶とは、単なる映像や言葉ではなく、匂いや温度といった身体感覚を含んでいる。地元に帰ると、都会で忘れていた記憶がふと蘇ることがある。それは単なる郷愁(ノスタルジー)ではなく、その地域でしか保持され得ない記憶、あるいは情報が存在しているからだと考えられる。それらの記憶は脳の中に保管されているが、地域という環境がなければ再生されることがない。つまり人間の中には、地域の外では「閲覧」することのできない記憶があるのだ。そうした記憶を含んだ作品を制作し、公開する場合には、その作品を記憶の源である地域内に設置するのが望ましい。なぜなら、その作品自体が土地と密接に結びつき「記憶の再生装置」として機能するからである。実際に、作家が特定の場所に置くことを望んだ作品が、社会的・経済的な都合によって移動され、壊された例も少なくない。また、移動されても物理的には破壊されないが、他の地域では本来の力を発揮せず、再び元の土地に戻されることでその機能を取り戻すという事例も存在する。そう考えると、世界の美術館などに所蔵されている名作の中にも、もし元の地域に戻されたなら、眠っていた本来の力を取り戻し、より豊かな体験をもたらすかもしれない。
 地域に根ざした作品をつくる場合、地域外、あるいは海外から訪れる人々に向けて、その土地固有の「記憶の鍵」を与えることで特別な体験を生み出すことができる。これは自身の中に眠る記憶と接続する。個人の記憶にとどまらず、時には先祖の記憶にまで遡る。その地域に訪れたことがない人が接続するかもしれない。その場合今までに誰も経験したことがない、深い精神的体験をもたらすだろう。

 最後に、アートとは「発想」の前にある「気づき」である。理屈を超えた、理由のない理解である。地域の独自性を失うことは、その「気づき」や「記憶の鍵」を失うことと等しく、人間の深層にあるつながりや知恵をも喪失させてしまうことである。だからこそ、地域を守り続けることには、ただそれだけで大きな意味と価値があると私は考えている。


20250414 高橋信雅