『正三角形と正日本橋』
正三角形が美しいということはみんな知っている。しかし、厳密には「すべての辺が等しい」という条件は、原子レベルで見ると誤差が生じるため実現不可能。なので正三角形はこの世界に存在しない。正三角形が美しいというのは、空想上の真理なのだ。なので、「正三角形を描く」ということは「正三角形にできる限り近い形を作る」ということになる訳だが、もう少し考えを進めると「見た人が正三角形だと思う形を作る」ということになる。そして「思う」の先は「考えてしまう」になるのではないだろうか。見た人が正三角形に夢中になってしまう。「正三角形とは何だったか?誰が考えたのか?どうして美しいのか」夢中になってたくさんの正三角形もどきを描いているとある日、腑に落ちて、自分なりの正三角形が現れる。素直に美しい。閃いて描いたその形は「見た人が正三角形の意味を理解できる形」に進化する。「そういうことなのね」とか「そういう解釈もあるよね。面白い」と、一緒に楽しめるのだ。直感的なこの形は、実際寸法を測ってみれば全く以って正三角形ではない。ただ、最初の「近似形」と並べてみれば、明らかにこちらが正三角形でなのである。
日本橋が重要なところだということは日本人であればみんな知っている。しかし、日本のそして東京の何処にあるのか?と聞かれても、地図を見て正確に指挿せる人は極端に少ない。「このあたりかな?」と東京駅の右上付近を指差すのであろう。歴史上、重要なことは何だったか?味付け海苔やハヤシライス、金鍔など日本橋発祥のものは幾つかあるが、正確に言える人は、また少ない。日本橋は何処にあるのか?何をしたのか?はてさて有名なのは橋か地名か?いつからあるのか?もし「日本橋はココですよ。」と言われても「ああ」とか、「そうなんだ」とか、ピンとこないかもしれない。そんなことよりも「江戸時代に整備された五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の起点であり、現在でも日本橋の中心点は日本の道路標識の「東京まで〇〇km」という表記の原点なんですよ!」とか、「三井財閥や三越デパートの発祥の地である!」と語れば「そうそう、それが日本橋!」と成る。正しい日本橋は「物語」の中にみつけたり!
そういえば、アーティストが書く作品の説明は全て嘘だと伝えたい。作品の発生は全て偶然である。周りが説明しろというのでしているだけ、後付けである。その説明に引っ張られて本人が本当にそう作ったと勘違いし作品が作れなくなるなんてことはよくある話。弟子たちには、説明しろと言われたら作る前にやっていたことを書けと教えている。「アトリエの横の急な坂道を登っている時に頭の中に思い浮かびました」不思議に思うかもしれないが作品に直結しているこの文章は、作品の色や構成を全く記述していないのにその作品を良いと思った人には「ああ、なんかわかる」と、ちゃんと伝わる説明なのである。昼も夜もごはんの時も作品のことを考えて、なんてことないタイミングで落ちてくるのがアイデア。その時に行動が伴えば作品に成る。そこで「作品に説明を」と言われて困った時に添えるのは「評論」にしたら良いと私は思っている。「評論」は真理に近づく行為であり、正解はなく、人それぞれ形を変えて表現をすることができる。いわば、あっちにありますよ!とざっくりした方向しか指していない「作品の交通標識」みたいなものなのだ。たくさん評論があれば、作品の理解も深まるし、確実に作品へ近づくことができる。
例えば、アートの最新型は「主観」「客観」「評論」「時間」の4箇所から作品を支える「四点法(と私は呼んでいる)」を使用している。この四点を作品の中に全て入れるというのがミソである。昭和のバブル時代には、アーティストの「主観」のみで作られており、感覚が違う我々には理解が難しい。キュレーターが「評論」をつけることによりなんとか理解を示してきた。それでは盛り上がらないと、欲深いアーティストは「客観」も自ら担当。本人が観客として楽しめるように作品が変化したことで、共鳴してくれる観客を取り込んでいった。その後アーティスト本人が「評論」までもつけることで一気に理解が広がる。本人が設置した交通標識があれば間違いなし。見るだけである程度の内容がわかるという不思議。これはアート好きな観客に「三角測量」のように正確に作品の場所を示すことで、アートの航海をより楽しませることができるようになったのである。さらに最新型は「時間」までも取り込んだ。動く作品や観客が参加することで意味を持つ作品など、軸が増えアートピラミッドが完成。平面から立体に成り、より解像度が上がったのである。ここまで来ると「アートがわからない人でもアートが理解できる」ように成る。最近の日本におけるアートブームは本物なのである。アートなんてわからないという人ほど、最新型は見て欲しい。
ちなみにこの文章は「瀬戸内国際芸術祭」開催中の鬼ヶ島(女木島)で書いている。島から「日本橋」に想いを馳せるのも楽しい。「正日本橋」はいまだ掴めないが「四点法」を用いれば「日本橋を知らない人でも日本橋を理解できる」ように成るかもしれない。もっとも、その表現を担うのは当事者である。だからここでは、無責任に言い放って終わりたい。
-「月刊日本橋」2025年10月号 ヨリ
20250831 ∞